ジョバンニ中島の それでも生きていこうか

うまく生きては来られなかった。馬鹿はやったけれど、ズルいことはしなかった。まだしばらくの間、残された時間がある。希望を抱けるような有様ではないが、それでも生きていこうか。

かげろう

S市の有名な繁華街の入り口に、くろだという焼き鳥屋がある。今の世のネット検索で調べてまともに出てくるのか、どうか。やってみたことはない。

愛想笑いのやりかただけは一応知っているというような大将と、黄ばんだこけしのような女将、そしておそらく少し発達障害がある、すでにいい歳の娘がやっている店。昔は息子が焼き場をやっていたが、いなくなった。小路に入って十字路の角。古ぼけた名入り行灯の電気が消えていれば、その日は休みだ。前触れも何もない。

私を初めてその店に連れて行ってくれたのは、社会人なりたての頃に働いていた会社の上司だった。もとは東京の人間だ。アイビー調のファッションにこだわりがあって、いつもそんな雰囲気の服を着ていた。

「この突き出しで出る煮込みがさ、美味いんだよ」

狭いカウンター席で私に肩をぶつけて、モツ煮に七味の粉末を散らす。カウンターにも散らす。

「明日の昼まで、におうけどな」

ニコニコと笑う。独り身で、人が良くて、肩肘張らない人だった。

ニッチなビジネスは儲かるのだそうだ。しかも昔は桁が違ったようで、詳しく書くのは避けるが、その会社は戦前戦後に隆盛を誇った企業だった。古き良き時代を知る経営幹部が吐く大言壮語に現実の業績が全く見合わなくなっているのが、入社したての私でもわかる、そんなところだ。

上司はその会社の元若手期待株、今でも上役から〇〇ちゃんと綽名で呼ばれる人だった。ビートルズが好きだった。

「ジョンレノンが日本に来た時、彼がいた場所に次の日俺も行ったんだよ」

「へえ。会ったんですか」

「いや。でもまだにおいがしたさ」

私がその上司と同じ職場で過ごしたのは、業績悪化による組織の再編が始まるまでの1年ほど。辞める人間や辞めさせられる人間のすったもんだがあって、S市の事務所は電話番号だけの張りぼてになった。私は東京本社に異動になった。上司も同様異動になった。そのはずだった。

私は引き続き、S市の事務所の営業担当をすることになったが、上司がどの部署で何をやるのかは知らされていなかった。

「もう来てないのよずっと、会社に」

機会があって総務の人間に尋ねると、彼女はそう言った。

「辞めたんですか」

「わからないの。異動後に一度だけ本社に見えたのよ。いつも通りで、ニコニコして挨拶してくれて。でもその後に社長室ですごい大声で社長と怒鳴りあって出て行って、それっきりだわ」

 

私はその後5年ほど東京の本社勤めをしてS市に戻ったが、その間一度もその上司の姿を見ることはなかった。噂によれば退職金も受け取らず完全に消息を絶ったらしい。

 

今でも年に数回、S市に帰省する度に私はくろだに顔を出す。いつも頼むのは豚のハラミの炙りだ。これに摺りニンニクをぬたくって食べるとべらぼうに美味い。

明日の昼まで、におうけれども。

 

 

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