ジョバンニ中島の それでも生きていこうか

うまく生きては来られなかった。馬鹿はやったけれど、ズルいことはしなかった。まだしばらくの間、残された時間がある。希望を抱けるような有様ではないが、それでも生きていこうか。

道標は犬

山で仕事をしていた日々、時折現場や集合場所にたどり着くのに手こずることがあった。

道が険しいという意味ではない。問題は目印として伝えられる物にある。

コンビニエンスストアや信号、目立つ看板などであれば問題ない。しかしそれが横倒しの電柱だとかひっくり返されたU字溝、打ち捨てられたバスタブだったりすると話が違ってくる。雪が降ったり積もったりすると、見落としてしまうからだ。

しかし何といっても山の中。実際何もないのだから、文句を言っても始まらない。

その中でも特に印象に残っている物がある。

犬だ。

 

「明日の新しい現場だけど」

翌日の作業員の配置が決まると、夜に担当者から連絡がある。

「ジャンボエビ釣り堀の幟を過ぎて~中略~左側に黒い大きい犬がいるから、そこを曲がって来てください」

「犬ですか?」と私。

「そう」

「犬の置物か何かでしょうか」

「いや本物の犬だよ」

「…その犬は道端につながれているんですか?」

「そうじゃないがとにかく、そこを曲がって来てください。他に目印は無いんで」

つながれていない犬なら、あちこち動くだろうに。納得しかねたが、職人というのは得てして口数が少ない。あまりしつこく聞いて機嫌を損ねても困る。見つからなければ電話してあらためて聞こう、そう思い私は電話を切った。

 

自分の最も古い記憶は、何だろう。

そう思って頭の中を浚ってみた事が、あなたもあるかもしれない。

ごく若い頃であれば、収穫は多いだろう。ひとつ何かを見つければ、他の記憶が連鎖的に甦ることもある。

ああ、あれはこうだったのだ。記憶が修復される。思い出が補完される。

そんなことは私にもあった。思い浮かんだのは毛むくじゃらの茶色い塊のイメージだ。

それが何かは、長いこと判らずにいたが、ある日実家で見た一枚の写真が解決してくれた。

1、2歳だろうか。家の庭で遊ぶ幼い私にまとわりつく、1匹の犬。ぼさぼさのこげ茶色の毛。近頃見かけない、雑種の中の雑種とでもいうような犬。唇がひらがなの「つ」の字にめくれて、白目を剥いたような顔で写っている。はしゃいでいる顔だ。

後で父に聞いた。私が3歳の頃まで、うちで飼っていた犬なのだ。

名前はマック。父の転勤で飼えなくなってしまい、会社の同僚に引き取ってもらったそうだ。私によく懐いていたらしい。

どうして忘れていたのだろう。いや、すっかり忘れていた訳ではない。

茶色いもじゃもじゃの塊。

覚えていたぞ、マック。

 

翌朝、雪がちらつく中を、私は指示された現場に向けて車を走らせていた。

主要道から山道に逸れると、日陰が多い道はところどころ凍っている。スタッドレスタイヤは雪の上なら走れるが、凍結路はいけない。慎重にカーブを進む。

話にあった釣り堀の幟を通り過ぎ、横道に入る。すっかりもう私は、他の作業員の車の気配やタイヤの跡を探すつもりでいる。心許ない目印のことなど忘れかけていた。

するとその時、道端にのっそりと立つ、奇妙な黒い固まりが見えた。

犬だ。

犬種は判らない。黒い大型犬だ。放し飼いのようだ。退屈そうに道路を眺めている。

後で判ったのだが、その日の現場のそばには牛の飼育場があり、犬は夜間など人の留守を守っているれっきとした使役犬だった。おそらく毎朝、飼育場の人間を出迎えるために道端にいるのだ。

そんな事とはまだ知らない私は、車中で呆気にとられていた。目印の犬が、本当にいた…。

おかしさがこみ上げて来たのはしばらく経ってからだ。

容易には、収まらなかった。

蟻は這う 3

山道を登る歩き方には、コツがある。

説明が難しいが、膝を前に持ち上げるのではなくて、逆の脚の膝の裏をぴんと突っ張るようにすると、楽なのだ。自然、男性らしからぬ、尻を左右に振る歩き方になるが、周りの先輩方は皆そうしていた。それを真似することに気付いてから、少しづつ息が続くようになった。

 

毎朝、山道を登る。気温は低く、吐き出す息がまるで雲のようだ。泥が混ざり汚れた雪の筋を残しながら、私たちは登る。

初日は、森林組合の人が道脇の若木を鉈で切り、杖にして渡してくれた。有難く使わせてもらったが、数日後には要らなくなった。

幾重にも重ねていた服装は、Tシャツ一枚の上にウィンドブレーカーという格好に落ち着いた。寒くはなかった。汗で湿ったTシャツは、ウィンドブレーカーの胸をはだけるとじきに乾いた。体の中から無限に熱が湧いてくる気がした。

 

作業をする現場は、山道沿いにあることはほとんどない。だから最後はきつい崖を登っていく。カモシカよろしく崖を斜めに、また切り返して斜めに、ジグザグに登る。

スパイク付きの長靴を履いてはいるが、雪が乗った枯葉は滑る。肩には鋭い丸刃が付いた刈払機を担いでいる。途中、斜面に立つ杉の樹につかまると、何とも言えない安堵に包まれる。名残惜しく手を放し、また登る。

 

辿り着いた現場で行うのは除伐作業。刈払機で杉林に生えた笹などの下草や、灌木などを切り飛ばすのだ。前述もしたように、通常冬にやることではない。冬は草が伸びていないし、第一雪に埋もれて見えないことも多い。

 

ある現場はほぼ山頂近くにあった。

風に削り取られたようなむき出しの山頂に向かう最後の方は、ジグザグ登りではなく、地面にしがみついて這うことになった。

震災の前、サラリーマン暮らしに慣れきっていた頃の私には、信じられなかっただろう状況に、思わず苦笑が漏れた。

それでも生きている。そう思った。

癒える

人間というのは、強くない。

体や心の悲鳴を無視していると、必ずどこかに歪みが溜まる。程度が過ぎるとひどいことになる。

ある日突然、起き上がれなくなったことがある。

脊髄を駆け上る痺れに襲われ身動きが取れなくなったこともある。

人と会話を交わすことさえ耐えられなくなったこともある。

弾けてしまったゼンマイのようなもので、どうにもならない。

限界まで来たことが、自分自身にはわかっている。抗うのは止そう。これ以上無理を重ねることは、おそらく命に関わる。

社会への義理は、出来そうならば果たしておけばいい。まずは立ち止まることだ。時の流れから自分を引き剥がすことだ。安全な場所に身を横たえることだ。

見てみろ。そんなにたくさん、血が流れ出ているんじゃないか。

小難しい存在であることを、一旦やめよう。手足は折り畳んで、命を繋ぐものが通り抜けるだけの一本の管になろう。

時の流れを忘れて、無に埋もれることだ。

そうすることで、

誰のお陰でもなく、私はまた独り自ら癒える。

癒えて立ち上がり、またきっと歩き出す。 

蟻は這う 2

坂というのは不思議なものだ。

そこに身を置いている時に、その角度を体感できる人というのは少ない。例えば、人が頭で理解している45度というのは直角の壁の半分の傾きだ。でもそれに向き合ったときに感じる傾斜は、上り下りいずれでも遥かに急なものになる。徒歩や自転車で上るのに骨折るところでも、実際には分度器にあてれば5度もない。

わたしたち人間は平面で進化したからだ。

 

森林組合での仕事の初日。

幸いにしてまだ雪もない山の麓の集合場所で、朝礼をする。無駄話をして煙草など吸う。装備の点検など準備をする。それから山を登る。

登山をする方には解るだろう。山道を登る事それ自体が結構な運動だ。私は登山などやったことが無かったし、飲酒煙草といった不摂生をもう20年は続けてきていた。

10分も登ると息が続かなくなった。視界の縁が黒くぼやけた。

「少し休みましょう」

指導員に憐れむような目で見られても、心臓は暴れ、肺に力は無い。立ち止まって見守る人たちに囲まれて、私は膝に手をつき、終いには地面に膝をついて息を盛り返そうとした。釣り上げられた魚のように喘いだ。

「初めての人には、山登りは辛いです。待ちますから」

指導員役の青年は煙草に火をつけ、腰袋から抜き出したペットボトルの水を口に含んだ。後で聞いた事だが、未経験と言って林業に飛び込む人はそれなりにいるらしく、その殆どは、その日の私のようなことになるらしい。彼にしてみれば別に意外でもない想定内の出来事だったのだ。

麓からいくらも上っているのではないから、空気が薄い訳ではない。程無くして呼吸のペースを取り戻した私が回復したと伝えると、私たちはまた無言で山道を登り始めた。

途端にまた、視界が黒ずみはじめた。

蟻は這う

「…この業務は東日本大震災の緊急雇用対策として発注されたものです。既に研修は受けていただきましたが、未経験の皆さんは指導員の指示を守って、事故の無いよう作業にあたってください」

11月を過ぎれば東北はどこも冷える。しかも山の上でやるのだという仕事に備えて厚く着ぶくれした私は、窮屈なタートルネックの襟を引っ張って息をしながら森林組合の職員の訓示を聞いていた。

ハローワークでは15人募集していると聞いたが、その日集合場所に来ているのは森林組合の職員を除けば3人。私と20代半ばほどだろう痩せて背の高い青年、そして小柄で真っ黒に日焼けした初老の男性。挨拶した際に漏れ聞いたところでは、二人ともどうやら未経験ではないらしい。道理で服装も装備も私のように不格好ではない。

「山の仕事は普通、冬はやらないもので。辛いのが判ってる人はまあ、応募して来ないでしょうなあ」

初老の男性は鈴木さんといった。小柄だが、頑丈な体の持ち主であるのがうかがえた。林業の経験は長く、最近は造園の会社で働いていたと言っていた。青年の方は安田さんといい、こちらはそれまで牧場で働いていたとのこと。

職員の訓示の後は装備の身に着け方や取り扱いの説明で、これは未経験の私以外には必要ない。支給されたスパイク付きの長靴を履いてストラップで締め付けるやり方や、燃料や工具を入れておく腰袋のこと、ヘルメットと防塵フェイスガードのこと、主な商売道具となる刈払機のストラップの装着方法…。慣れてしまえば何でもない事柄なのだが、素人の私にとっては何事もいちいち物珍しく、理解できるまで何度も確認した。

 

一次産業への憧れ、というものを昔から持っている。

会社員向き、しかも営業や渉外などの仕事に向いているという自己評価は若い頃から変わらない。その通り歩いてきた。しかし農業や林業、漁業といった仕事には、生きるという事の根幹により近くて武骨な格好良さがあると常に思っていた。

震災後一時的に職のあてを無くした私は、試験を受けた役所絡みの団体で採用が決まったが、勤務は翌年度からだった。その待期期間に森林組合から出ている林業作業員募集を見つけ、申し込んでみたのだった。

震災でいろいろあった後で不謹慎なことだが、 正直なところ大層ワクワクしていた。

 

 

青みがかった暗がりの中、つくりものの星空が瞬いている。

「さわっていいよ」

女はくすりと笑って、並んで座った私の手を自分の太ももにのせた。効かせすぎの空調のせいで、タイトスカートからのびる素のままの肌はひんやりと冷たかった。

飲み屋の女の割には、華やかさのない女だと思っていた。愛想笑いが下手だし、受け答えも生真面目すぎる。でもそんなところが、私は好きだった。

「田舎にね、蛍が見れる川があった」 

天井を見上げる横顔を初めて、私は美しいと思った。

「なつかしいなあ」

彼女の名はまどかといった。東北の震災で失った物事はいくつかあるが、彼女はそのうちのひとつだ。

 

S市で働いていた30代半ば、私はサラリーマンとしては充実した日々を送っていたと思う。良い出会い、良い巡り合わせに恵まれた。それに尽きる。で、自分なりにそういった幸運には、恩返しをする事に決めていた。

自分一人でやれることには限界があるのだから、部下を使う。いい部下は私の株を上げてくれる。株が上がれば報酬が増える。世話になった上司の入れ知恵もあったのだが、私は賞与として貰った分は部下との付き合いに充てることにした。とにかく飲み食いをさせた。私も嫌いではないから、惜しいとは思わなかった。

いつだったか取引先の若手も含めて結構な人数で飲み歩いていた時に、たまたま入ったのが、まどかのいる店だった。

「本日は当店にようこそおいで下さいました。わたくし店長を務めさせていただいております、まどかと申します」

いわゆるキャバクラ。通りすがりに呼び込みに引っかかった店で、席に着くなり強ばった表情でそんな仰々しい挨拶をしてきたのが、まどかだった。部下の誰かが、私がスポンサーだとか何とかふざけて言ったのだ。

「今後ともぜひご贔屓に」

怖いものでも見るような顔でまどかはそう言ったのだが、果たしてその通りになった。

それから2年ほどの間だろうか、飲み歩いた最後はまどかの店でというのがお決まりのパターンになった。彼女以外の店の女性たちは普通の夜の女たちで、一緒に行く部下たちはそれなりに楽しんでいた。

私の隣の席にはいつもまどかが座る。彼女は話が上手くないし、私も仕事以外ではあまり喋る方ではない。私が飲むと、彼女が黙ってハンカチでグラスを拭く。飲むとまた、グラスを拭く。そんな事が何百回…。

 

私は独りで飲むなら焼き鳥屋で十分で、高い飲み屋に行くことはほとんどない。だけど一度だけ、ほんの気まぐれでまどかの店に寄ってみたことがある。

独りで店に入った私を見つけたまどかは、黒服の店員に店長らしく何事かテキパキと指示すると、私を店の奥にある個室に導いた。

「今日は暇で」

だだっ広い個室に通されて驚いている私に言い訳するように、まどかは言った。

「中島さん、やっと一人で来たから。サービスよ」

俗にVIPルームといわれる部屋だったんだろう。小型のプラネタリウムが設置されていた。まどかが楕円形のガラステーブルにあるスイッチに触れると、私たちの頭上につくりものの星空が現れた。

 

震災で、まどかのいた店は無くなってしまった。彼女との連絡は途絶えたが、心配はしていなかった。飲み屋の店長をするほどの女だ。逞しく生き延びているに違いないのだから。

 

まどかが被災して亡くなったと聞いたのは、震災から3か月ほど、後のことだった。

 

 

 

 

かげろう

S市の有名な繁華街の入り口に、くろだという焼き鳥屋がある。今の世のネット検索で調べてまともに出てくるのか、どうか。やってみたことはない。

愛想笑いのやりかただけは一応知っているというような大将と、黄ばんだこけしのような女将、そしておそらく少し発達障害がある、すでにいい歳の娘がやっている店。昔は息子が焼き場をやっていたが、いなくなった。小路に入って十字路の角。古ぼけた名入り行灯の電気が消えていれば、その日は休みだ。前触れも何もない。

私を初めてその店に連れて行ってくれたのは、社会人なりたての頃に働いていた会社の上司だった。もとは東京の人間だ。アイビー調のファッションにこだわりがあって、いつもそんな雰囲気の服を着ていた。

「この突き出しで出る煮込みがさ、美味いんだよ」

狭いカウンター席で私に肩をぶつけて、モツ煮に七味の粉末を散らす。カウンターにも散らす。

「明日の昼まで、におうけどな」

ニコニコと笑う。独り身で、人が良くて、肩肘張らない人だった。

ニッチなビジネスは儲かるのだそうだ。しかも昔は桁が違ったようで、詳しく書くのは避けるが、その会社は戦前戦後に隆盛を誇った企業だった。古き良き時代を知る経営幹部が吐く大言壮語に現実の業績が全く見合わなくなっているのが、入社したての私でもわかる、そんなところだ。

上司はその会社の元若手期待株、今でも上役から〇〇ちゃんと綽名で呼ばれる人だった。ビートルズが好きだった。

「ジョンレノンが日本に来た時、彼がいた場所に次の日俺も行ったんだよ」

「へえ。会ったんですか」

「いや。でもまだにおいがしたさ」

私がその上司と同じ職場で過ごしたのは、業績悪化による組織の再編が始まるまでの1年ほど。辞める人間や辞めさせられる人間のすったもんだがあって、S市の事務所は電話番号だけの張りぼてになった。私は東京本社に異動になった。上司も同様異動になった。そのはずだった。

私は引き続き、S市の事務所の営業担当をすることになったが、上司がどの部署で何をやるのかは知らされていなかった。

「もう来てないのよずっと、会社に」

機会があって総務の人間に尋ねると、彼女はそう言った。

「辞めたんですか」

「わからないの。異動後に一度だけ本社に見えたのよ。いつも通りで、ニコニコして挨拶してくれて。でもその後に社長室ですごい大声で社長と怒鳴りあって出て行って、それっきりだわ」

 

私はその後5年ほど東京の本社勤めをしてS市に戻ったが、その間一度もその上司の姿を見ることはなかった。噂によれば退職金も受け取らず完全に消息を絶ったらしい。

 

今でも年に数回、S市に帰省する度に私はくろだに顔を出す。いつも頼むのは豚のハラミの炙りだ。これに摺りニンニクをぬたくって食べるとべらぼうに美味い。

明日の昼まで、におうけれども。

 

 

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