ジョバンニ中島の それでも生きていこうか

うまく生きては来られなかった。馬鹿はやったけれど、ズルいことはしなかった。まだしばらくの間、残された時間がある。希望を抱けるような有様ではないが、それでも生きていこうか。

蜘蛛の糸

「いつになったら収まりますかね。この揺れ」

若い部下が青白い顔をして、俄かに冬に逆戻りしたようなどす黒い雲を見上げた。家族に電話が通じない、と呟いた。

私は生返事をしながら、ふわふわ波打つように感じる足元のアスファルトを見つめていた。平成23年の3月11日の夕刻、東北はS市中心部の街路は、オフィスビルから逃れ出た人々で埋め尽くされていた。本震から1時間以上経ち、余震の揺れが襲うたびに上がる悲鳴が、もはや慣れたのか疲れたのか弱まってきたようだった。

東日本大震災。S市の出身で当時もS市で暮らしていた私にとって、人生の転換点になった事は間違いない。周りには命を落とした人も、家族を亡くした人も、家屋を失った人も、職を失った人もいた。

 でもそういった事は、私がここで語ることではない。

 

「君が無事で何よりだった」

 私が当時勤めていた会社の若社長は、ようやく電話がつながったと息を弾ませた後に、そう言った。東京の本社からだった。地震の後、電話回線はほぼパンクしていた。

私は礼を言い、他の社員の安否について判明した限りのことを報告した。支店長がちょうど東京に出張している間の出来事だったので、代理で処置したことなども報告をした。それが終わると若社長は少し黙っていたが、こう切り出した。

「なあ、君の転職、こんな時に言うのも何だが、いやこんなことになったからこそ言うんだが、もしもうまく運ばないような事があれば、私はいつでも待っている」

 

若社長が言ったのは、私が当時進めていた転職話のことだ。

数年前から私は、社内で若社長に立てつくような格好になっていた。小さな会社ではなかったが、たまたまわたしは良いポジションにいて、幾分か思い上がっていた。

社長にしてみれば、長年の同族経営が遺したしこりを解く長い道のりが始まったところだった。思い通りにいかないことばかりだっただろう。

営業チームの立て直しやいわゆるリストラなど、わたしも存分に仕事をした。年齢的なこともあろうが、あの時ほど仕事に打ち込んだ事は他にない。とはいえ単純な算数だ。入りを増やして出るのを抑える。人を辞めさせるのは心が軋むが、当時は使命と考えてやりきった。結果、私の支店の業績は上向く。

しかし会社全体ではそうはいかない。むしろ数字は落ちている。またはじめからやり直しだ…。

 

そんな自分自身の不満もストレスもあった。周囲の若手や叩き上げの役員などに煽られたのもある。だが気が付けばもう引っ込みがつかなくなっていた。震災の半年前には退職願いを出して辞める準備を整え、S市の地場企業と話を進めていた。

 

 「ありがとうございます。しかし、決めたことですので」

わたしは声を絞り出してそう言い、数日後に迫っていた退社日までに処置できることは全てやっていくと、若社長に伝えた。自身に立てついてきた小生意気な社員に、彼は最後の蜘蛛の糸の先を届かせようとしてくれていたのだ。それを握る資格など、その時すでに私には無い。この後、震災の影響で私の転職話は頓挫することになる。

「ですが、お言葉は生涯忘れません」

 

 

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ミミズの夢

人生にはいろいろあるさ、うまくいく事ばかりじゃないと、それこそ数えきれないくらいの先人が言い遺して来ただろうし、もしこれを読んでくれている人がいるとするならば、そのあなたもそう感じたことが幾度かはあるのかもしれない。

でも、うまくいかない事が多すぎるなら、それは自分自身のせいだ。

私はジョバンニ中島。いわゆる仕事に成功することにも、男として強く在ることにも、もしかしたら優しく在ることにも失敗した男。

運がいいとか悪いとかというのは、いつ頃からか、いちいち考えなくなった。無限責任という言葉があるが、私に能力と機転がありさえすれば、何か策を講じることが出来たのではないかと思うことはよくある。まるでバタフライエフェクトを遡ろうとするミミズだ。

私は本来いるべきだった場所から700キロ離れた場所で、今これを書いている。

贖罪と再生。よく見る言葉ではあるけれど、本気でそれを欲して、今これを書いている。

 

 

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